とちゅう

これは、とちゅう 手前

 

 今までの試みは、私の経験(たとえば散歩の)を分解して個々の現象を取り出し、それをもう一度起こすためのものだったと思う。いま考えてみるとそれは、ひとつの踊りの作り方として、よく理解できる。

 前に子どもがピアノを手や足でたたく映像を見たときに思ったのは、これを演奏だと言うことはできないということ、なぜなら子どもはひとつの技術を以ってピアノを弾いているわけではないから。まだ出会っていない秩序があることと、無秩序であることは違う。まだ出会っていない秩序を可能にするのは、それを実現するために、ひとつの技術ややり方、手順をもってそれを行う者である。

 ダンスにも同じことが言える。振付は、動きそのものを作ることに加えて、複数の動きをまとめ、繰り返し可能にするための技術である。あるいは、たとえば机からペンが落ちることをダンスとするならば、ただもう一度ペンを落とせばいいと言うわけではない。ペンが落ちるか、落ちないか(踊りか、そうでないか)というよりも、どうやってペンが落ちるか(どういう踊りか)が、技術になる。たとえば「タスク」という考え方は、そうした日常の動きをダンスとして提示するための手続き、そのためのひとつの技術としてわかりやすい。

 だから今までの試みは、一度起こったことをもう一度起こすための技術、としての踊りの制作だったと理解できる。しかし今まではダンスのことを考えてきて、あまりにもそちらに寄っていたと思うけれど、いまは前述したように新しい物事の並びを可能にするものとして、いままでの語彙を引き継ぎながら、(ダンスそのものとはっきり区別して)踊りというものを考えられる。

 

松井みどりレクチャーの資料を読み返そうとおもっている

 

中平卓馬

 だがはたして普遍的、客観的な木は存在するのか。

 たしかに存在はしようが、私がそこに居合わせないかぎり木は何ものも意味しないだろうし、また所詮人間とは無縁のものである。一本の木はそれを見る人間によって初めて一本の木として成立する。同様に、リアルなものとはここで、今・私にとってリアルなものとして現出するのだ。[…]現実そのものではないが、私が立ち会うことによって、主体化され、変形された第二の現実、それが映像なのだ。

 

 それならば一本の木の映像を眺める者の場合はどうか。彼に当の写真家の体験を強要することはできない。なぜなら1枚の写真にそういう説得性[…]を求めることはできないからだ。ただ一枚の木の写真は、それを写真家が現実から引用し、自らのうちにおいて言葉を増幅させたように、それを眺める個々人の再引用に向かって開かれているばかりだ。…  

 

 …木が木であることを明らかにした上で、ここに、今、他ならぬ私が立ち会うことによってもたらされる木という言葉の振幅を広げるものでなければならないだろう。