詩を書いておもったこと

 私がつねに単一の見えを経験していること。作品がよってたつ文脈がそれしかない。ひたすら私が分散していくしかない。

 作品のなかで言葉をどうやって扱うか。いきなりジャンル?の問題が立ちはだかる。なにかに表象されることなく、言葉そのものが必要になる、それはなぜなのか。リニアに続いているが、途切れ目がないこと。それを途切れさせてディスプレイすることはなんかちがう。詩を書いてみて、言葉と表象の中間にあると感じた。詩はそのリニアさと、改行による1行ごとの独立(単体で読めるということ、ディスプレイとはすこし違う)を両立していると思った。そして、これは作品がいかに経験したこと、それによって要請される経験しなかったことだけによって立つかという問題にもかかわる。詩はその一行ごとは確かに自分の生活のなかで書かれ、その読み(見え)を重ねて引き継ぎながら、誰も知らない(それを書いた本人ですら知らない?)風景に向かってすべての時間を牽引していく。前の一行が、あとの一行とはまったく脈絡のないものでありながら、それをそれ自体として参照する。

 作品というか美術じたいがなんなのか、ということ 詩を書いてみて、完成したなと思っても、それが冗長なことに気づいておどろいた。
   あお向けに重ねられた畳が
   通りすぎる雲のはやさを数えるとき
というとき、「通りすぎる」はいらない。雲のはやさ だけが雲が通りすぎていくという性質を持っている。詩はどんどん切り詰めることができる、そこに固有の経験を示すときに必要な言葉だけが残る。それはたぶんすごく簡単なことで、どう書けば、作れば伝わるか / 伝わらないかということにもなるし、すなわち現実とどうやって関わるか、現実をどうやってもう一度起こすのかという問題。その文法を自分でつくる、理論をつくる。粘土をつけたり外したり、切り絵で紙のまわりを少しずつ切っていくように、ちょっとずつ地面を形成していく手付き。

 それを作る方法と、それ自体が同じようになっている
私が世界をどう見ているかということが、作品になっている

 あとはどうやってこういう実感から空間をつくるかということが問題。それがただ再現にならず、錯視(こう見えてすごい!)にならず、実際に探索するための地面でありながら、各地にきっかけをばらまきつつひとつの経験が形成されるようにする。