5月の日記

「私が雲を見るという関係の中で、私が雲よりも見るよりも遅れて最後にやってきて最初に消えていくものではあるけれど、雲によってもたらされた見るをしている私はそれでもやっぱり特別な何かであり、それは私だから私にとって特別だというようなことではなくて、雲や空や木が見るをもたらす送り先として自覚するものとして特別な何かなのではないか。」ーー保坂和志カンバセイション・ピース

 

20180516
 何もできないところからはじめる、このあたりはあまりにも狭すぎて、そして広すぎて、点から点へ動き回ることしかできない。ある点においては、迷わないように、よけいなことが起こらないように、いつも同じ向きで行ったり帰ったりする。何かを見渡すことはなく、でも、その中断が私をいつも同じ道で行ったり帰ったりさせる。でも、その面の奥に私を包囲している世界があることを知っていて、その道を歩き、その部屋にいる私は、その世界をなんらかの方法で見ている。いつも、サッカーの練習や吹奏楽部の練習や、となりの部屋のドアが閉まる音が聞こえる。その音にずっと取り囲まれている。もしその音がしなくなっても、面に遮られて見えない、しかしあまりにも近いその世界がそのままであることを私は知っている。夜の学校がどんな風であるかを想像する。みんなよく眠っている。その世界は、この私と同じように何度も何度も繰り返される。夕方にスーパーの袋を持って歩くとき、もっと別の季節の夕方に、スーパーの袋を持って歩いている私の姿が重なる。この実感からしかはじめることができない、知っている人が知っている顔をしていることや、いつも見る建物の線や面で視界が区切られていることは、世界の繰り返しにつながっている。それが私の知っている秩序であり、あまりにも私に関係がなくて、そしてあまりにも私に関係している。


20180517
あまりにも窮屈な気持ちのなかで、突然まえに自分の書いたものを思い出してしまう奇妙さ。寝る前に占いを見て、当たりすぎていて変な顔になるのはもっと奇妙。冬の服をいま洗いながら、冬の寒さについて思い出すことができない。しかしこの体は、しっかりとかつての時間に紐づけられ、小さな小さな歴史をつくり、今、以前の自分書いたものを見て、当たり前に書き直そうとする。誰かの書いたものやつくったものを見て、ほんとうにそうだ、これは私の考えていることだと思う。それは自分勝手すぎるかもしれないけれど、自分のものを書き直そうとすることに似ている。それが何年前か、何十年前かは分からないけれど、たしかにこの体と結びつけられて、それが体の歴史の一部になる。私が結び目であると感じる。誰かの書いたものを、私は書き直すように作ることができる。ほんとうに制作というものは、この体を中心に置きながら、あまりにも小さな歴史を作っていくことでしかなくて、途方も無い気持ちになる。


20180518
すぐに映画の気持ちになってしまう。映画の気持ちというのは変だけれど、そうとしか言いようがない。もちろん美しい女優の仕草や表情に感化されている部分はあるけれど、なんというか、映画に流れる空気のなかを、私は生きられるのではないかという気がしてしまうのだ。でもそれは、ほんのちょっとは続くけれど、皿を洗ったり出かける支度をしたりするうちに忘れてしまう。きっとみんなそうなのは知っている。でもたまにそのことの耐えられなさを求めて、同じ映画を見てしまうことがある。映画のなかに、いつも同じように流れる空気と時間に逃げ込みながら、私じしんの生活全部が、こちらに打ち返される。
歌のなかに出てくるように、あなた、君、you、のことを扱いたいと思う(特に英語の詩において)。なにかを求められるようなあなたではなくて、ただそこにいて、歌われるようなあなた。他者という言葉は息苦しい。あなたは誰でもなくて、それを歌う人にとってのあなたでもない、聴く人にとってのあなたでもない。今までに見たことのない人の顔だって、思い出すことができる。夢のなかでそうであるように。私たちが経験した、色々な時間の、色々な場所の経験が、一挙に束ねられる場所としてのあなた、それはイメージと言えるかもしれない、私と誰かが、まったく違う面影を見ながら、同じあなただと言うことができると思う。