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ギャラリーαM企画展100回開催記念シンポジウム20世紀美術と現在 | gallery αM

 

[松浦]…彼は、他者の絵画を反復するに際して、どのような徴がその画家の特性を担い得るのか、何が作品をある芸術家の芸術作品と認定させるのかといった考察と分析から、そのようなマークの存在に興味を示し始めます。

その文脈で、抽象表現主義の作品を成り立たせているマークは何かと考えた時、そこに彼はブラッシュ・ストロークを見出したとも言えるでしょう。ブラッシュ・ストロークを見出したことはリキテンシュタインにとっても一つの決定的な断絶というか飛躍を可能にする局面だったと思います。一つには、多くの場合自然発生的あるいは無意識の欲望の発露と考えられがちな筆触による表記そのものが、もしかしたらそれに潜在するあるマークないし痕跡によって駆動されているのかもしれないということを明らかにした点です。つまり、よく言われるように筆触が何ものかの痕跡になるというのではなく、筆触に潜在するものこそが痕跡であるということです。もう一つの点は、他者の絵画の反復に際して、それまでリキテンシュタインは画面の構図、当の画家によって選択された画像的な主題といった次元にこのマークを見出してきたのですが、このブラッシュ・ストロークの連作で、絵画面への表記作用そのものを反復するという局面を迎えたと言えます。さらに、これは東さんが本でお書きになっていることでもありますが、リキテンシュタインはある段階から、今述べた論理の展開として複製したブラッシュ・ストロークと生のブラッシュ・ストロークという二つのブラッシュ・ストロークを並置する、ないし混在させるような画面を作るに至っています。

 

[松浦]個々の画家にとって「芸術と日常との関係の回復」という主題が仮にあり得るとしても、それは多くの場合、画面とどういうかたちで接触するかという場面で大きく露呈してくると思います。そこに筆触の政治の場が開かれています。そこで、今一つの点として筆触を巡る議論がしばしば政治的な語彙とともに語られてきたという歴史も指摘しておきたいと思います。「タッチが画面の上で自らの個別性あるいは平等性を主張し始めると、画面はたちまち無政府主義的な状態に陥る」という一節がボードレールのテクストの中にあります。ともあれ、タッチという一つの小さな窓口も芸術と日常、あるいは芸術と政治等々が接する場に存在しているのではないかと思います。

 

[東]皆さんも日本史の教科書かなにかで見たことがあると思いますが、当時、大英帝国はインドとか中国とか日本とか世界中で起きた出来事をロンドンに配信するためにイラストレーターを雇っていまして、ペンで描かれたイラストが続々とたまっていた。ロンドン絵入りニュースの漫画と北斎漫画はほとんど同時期なんですね。この二つを比べればわかるんですが、ロンドン絵入りニュースのほうはペンで描かれていますので極めて均質な線で描かれている。これは完全にリプレゼンデーションの空間なんですね。それに対して北斎漫画は筆で描かれていますので、まったく違うシステムで作られた絵なんですね。そのあと日本の漫画がどうなったかということを竹熊さんは僕に教えてくれたのですが、それを簡単に要約すると、筆の線で描かれる漫画は均質な線がないわけです。それに対してペンという新しいテクノロジーは当時の日本人にとって極めて衝撃的であっただろう。ペンをいかに使うかということに日本の漫画は向かうんですね。その一つの達成点として手塚治虫があって、手塚治虫の初期の絵は極めて均質な線で描かれている。

それに対するある種の批判として、日本では60年代に劇画が出てくる。劇画はGペンを使って、ペンを使いながらタッチを、今日の言葉で言えば筆触を出そうとするわけです。さらにそれに対する批判というか、それを乗り越えるかたちで大友克洋が70年代の末に出てくる。大友自身はロットリングを使ってなくて、ロットリングを使った作家は別にいるのですが、完全にすべてを均質な線で描くという大友の画像が出てくる。日本の漫画史というのはペンと筆の対立でもあるわけです。

 

[松浦]この本(アール・ローラン『セザンヌの構図』)に関してグリーンバーグも何回か書評のような文章を書いています。セザンヌ自身は線ではなくて色彩でデッサンをすると何度となく語っているのです。その時、色彩と線という対立はほとんどタッチと輪郭線という対立と同等だと思います。ところで、アール・ローランの本は、いくぶんか当初の出版事情ということもあると思うのですが、最近出ている版に至ってもほとんどカラー図版のない画集です。現在出ている版では2点か3点、カラー図版が入っていますが、相変わらず白黒の図版が中心になっています。それはなぜかというと、ローランがセザンヌの作品の中から、それぞれの作品のライナー・ストラクチュアというか線的な構図をもっぱら導き出すことに集中しているからです。
この試みに関してグリーンバーグは非常に揺れていて、一方でセザンヌにペインタリネスを見出そう、つまり線的な構想とは別の組み立てを見出そうとするのですが、他方、ローランによる色彩を欠いた図版とダイヤグラム化した図表へのセザンヌの絵画の還元にあり得べきセザンヌを見出そうともしていて、セザンヌにおける理論と実践の分裂とまで言い出しかねない様相を呈しています。そして、色彩派的なセザンヌではなくて、ライナー・ストラクチュアという仕組みにダイヤグラム化された、アール・ローランの書物セザンヌリキテンシュタインが参照し、その作品で反復しているというのは、今おっしゃったペンと筆の対比を補完する逸話になるのではないかと思います。

 

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