・いい加減同じことを使いまわして考えるのはやめたい、と何度も思うけれど、どうもそうするしかない感じがする。わからなくなった時は、自分がこれまで本当にわずかだけどつくってきたものや思考に立ち戻って、上書きすることからはじめるしかない。

・作品をつくることを考えたときに、すぐに自分の見ているものや読んでいるものと切り分けて、美術(というかんじのする)作品を参照しようとするわるい癖。

・自分が決めたことでいやになって、何もしなくなってしまうわるい癖2。

・何よりもそれが、すぐに眠くなってしまったり、疲れてしまう自分が作ったものになるといいと思う(それがテーマとして与えられたり、メタ的なものになったりせずに)。たとえば私が内部観測について書かれたものにひかれるのは、そういう理由があると思う。

 観測装置とは、量子絡みを実現する一人称行為体の別名である。古典論の枠内にあっては、対象を客観化できる主観は、客観化された対象からの主観の再構成を断念し、かつ、その断念という主客未分を甘受してきた。しかし、この断念は量子論には通用しない。量子論が観測という操作・過程を容認する限り、観測装置と称される一人称行為体の参入が避けられないからである。観測装置の参入がなければ、量子論は経験との接点を失い、砂上の楼閣と化す。核心にある問いは、いかにして主観を代行する一人称行為体を量子論の枠内で立ち上げることができるか、である。

 

 経験世界のうちに現れる行為体は、生物個体やサッカー選手がそうであるように、いずれも延々と継起する観測と決定という連鎖運動に組み込まれている。観測によって決定が更改され、それが引き続き新たな観測を喚起する、という連鎖が際限なく継起する。行為体の運動そのものが内部観測の現れとなる。……物理学における運動法則は、運動履歴によってその内容を変えない。しかしながら、この無時制の法則性は行為体の示す運動には適用されない。行為体の運動の基本は、みずから経験し、観測するそれ自身の運動履歴に応じて、絶えず更改される行為の決定にある。その決定更改をもたらす要因の最大公約数が、行為体が示す持続のうちに見いだされる。

 

  経験世界にあっては、完了形による新たな進行形の呼び込みが定石となる。進行形は完了形を更改するが、それ自体は周囲環境に由来する、先行する完了形から誘引される。

ー松野孝一郎『来るべき内部観測』

 

内部観測、=相互作用

観測する者の生を内側に取り込みながらなされる観測

観測する対象が疲れねむるように、観測する私も疲れねむる。

 

・ それぞれのパフォーマンスには、私が自分のプロジェクトのレパートリーを点検している時間である、沈黙の切れ目が存在する。観客が自らの意図を持続させる一方で、沈黙は私の意図を中断させる。私は再登場し、語りを取り戻し、一定の間それを保持したまま進んでから、またいなくなる。おそらく立て続けに起こる行為か、謎めいた動詞の環によって沈黙させられるのだ、第二の話の追加によって、私の頭脳は四つの要素すべてを取り囲むために広がり、ダンスは音を立てて飛び回り、ディティールとニュアンスは混じり合う、終わりが私に近づき、私も疾走し、両者は出会う。

 四重の拘束は選択のプロセスを覆し、もしくは再び創造する過剰な負担を創り出す。作品の形式は、やるべきことの困難さによって課せられ、パフォーマーの気力によって取り継がれていく。

 

 これはトリシャ・ブラウンの「accumulation with talking plus water motor」という作品についての文章。この作品はaccumulation(動きをつぎつぎ足していく作品)with talking(それを話しながら行う、しかも二つの文章を区切って交互に話す)plus water motor(それに、water mortrという激しく踊る作品を差し挟む)という構造。まったく別の作品たちがぶつかりあってパフォーマー自体にも混乱を起こしつつ、「パフォーマーの気力によって」あたらしい作品の形式が取り継がれる。

 

でもこういう考えを、どうやって提出していけばいいのか?