読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

トレースについて忘れかけているうちに

・「コピー」「完コピ」と言っているおじさんたちがいて、じゃあコピーとトレースの違いはなんだろう?と考えていた。

・コピー&ペースト、貼り付けられる、コピーはそのことを一旦保存しておく:そしてその場所は見えない(コピー、ペーストをする人、操作をする人自身とはちがった場所にある)

・トレースは行為、時間を含んでいる、トレースは(その前までしていたことを)忘れ続ける、コピーみたいに全部を一瞬で再現するということができない、コピーは複製:トレースは似たもの(制作されたもの)、トレースは徹底的に外側だけを写し取ったもの、むしろコピーよりも読み取ってしまう:実際にそれを読んでいる、たとえばある文章をパソコンにトレースさせると、形が似ている文字を間違って出力してしまうことがある(たとえばタイプミスのような間違いではなくて、文字の形じたいが似ているという間違い)

 

ダンスというか、方法・やり方があるものについて、成功か失敗かの判断がなされ、それによって作品が見られる(と思う)、成功/失敗という言い方が正しいかは別として。

それは実感として「Aがおーいと言うと、Bがはいと応える」というひとつのルールが見えてくると、やっとこれをちゃんと見ることができるという気持ちになり、それを軸に起こっていることを見る(ことしか私にはできない。単純に、舞台上でいちばん動いている人に目が行くし、その人がいったい何をしているのかちゃんと分かりたいと思う)。

・手塚さんのとっている方法:トレースのための指示の言葉、それを歌にしたものを舞台にあげる。

 

・ゆっくり以外の方法はないのか?(スローモーション以外で観察する)

・ロボットアームの動かしかたを思い出した。ロボットアームである動きを作りたいとき、"動き"を作ることはできない。ポーズA、ポーズBを設定し、ABというポーズを連続して指示することによって、ABのあいだのいちばん近道の軌道、という動きがつくられる。スローモーションにして生まれる時間はうそだから、ロボットアームみたいな方法でトレースしたら、1秒で起きることを1秒で見ているときに近くなるかもしれない。(アニメーションみたいな、静止画の連続によるダンス。キャプチャをする)あとその間はダンサーの私によって調整される。ダンスが生まれるときというよりダンスを見るときに近いやり方でダンスを再生する。

 

・トレースをみんなでした。

①二人組で話をする

②その間に、相手の動きを観察する

③相手の動きの部分を選択する

④その動きを言葉に起こす

⑤その言葉でほかの人に指示をする

⑥みんなでその指示にしたがって動く(新しい人のトレースになるたびに、みんなでもぞもぞと動いて姿勢をいちいち作り変えた。)

 

・手塚さんは制作をするうえで、まず「ゼロの状態」というのを設定し、その身体に指示を加えていくことで動きを作ったと話していた。でもたぶんそれはパフォーマンスをするうえでの、はじめのニュートラルな体のつくりという意味でやっていることだろう(ゼロの状態でも、他の状態でも、ある別の状態に移動するには絶対に差が生まれる)

というよりも、そもそも言葉ではぜんぶを言えない!ことに気づいてすごく驚いた。

 

ジュリエット、夫、木の葉、「この16時10分頃」は多数の要素をうちに含むが、「言語」はそれを規定できない。「どちらも優しくそよいでいた」というようなセンテンスで多数性をマークすることしかできない。世界には同時に複数のことが生じている。だが一つしか口を持たない私たちは、それらを順に示していくことしか出来ない。発語順序に必然性はない。世界は同時多重である。言語はそこに線形的な先後関係をつけて表現するほかない。 「ゴダール的方法」

 

・そもそも言葉がもどかしすぎる!これをメモしていても問題はここだなという気しかしないのに、言葉でそれを説明するのはすごく大変、おもったより、言葉の問題だとかんじる

・みんなの指示の手順はだいたい、みんなの体を部分ごとにロボットみたいに動かし、「ここまでが基本姿勢です」と言ったあとに、「首の皮をつねる」「ペンで4回ひざを叩く」みたいな動きの部分を加えるというやり方だった。「ここまでが基本姿勢です」というのは、すごくもったいないと思う。たしかにトレースの元になっているのは、座っている状態でなにかを話している人間だから、そのやり方は正しいように思える。でもそれは、せっかくひとつひとつの指示ーー「右足は折りたたんでいて」(みんなが右足を折りたたむ)「左足はななめの外側に開く」(みんなが左足を開く)によって生まれた時間、みんながひとつの「状態」を「運動」に分解しているあいだの時間を、トレースすること、つまり作品の外側に一気にもっていくことのはずだ。

・手塚さんはたぶんそのことをうまく解決するために、指示の言葉や歌を舞台にあげている。スローモーションの観察から、それの歌、現実のスピード(映像と同期)というように、グラデーションを作ることで、指示の言葉によって生まれてしまう時間を作品のうちに入れ込んだ(さいしょから早くはできないダンサーとして、スコアを作るコレオグラファーとして)。

・あーざんねん、は、あーざんねんというリズムと、あーざんねんという動きを指示するものである。

 

作品を記述し規定することがスコアの役割であり、たとえ現実に生起しうるすべての事象をスコアが扱うことになっても、扱えないものがある。それはスコアそれ自体でありスコアを記す行為である。しかし、ではそのスコアを現実(時間と空間)のなかで記述しようとする行為はどこから発するのか?あるいは、その行為そのものが、その記述されようとするスコアによって指示されていたのだとしたら。それぞれの記述はそれぞれ構造として完結を求めるが、そもそも複数の記述、複数の構造が互いに相手を記述しようとして身構え、現にそれははじまっている!こうして複数の任務のあいだに置かれて演奏者は、もはや作曲家/演奏家の区別を維持できず、スコアそれ自体が演奏者となって、まだ書かれていないが書かなければならないという「前に進みつづける」状態を保ち、そこにとどまる。 「トリシャ・ブラウン 思考というモーション」

 

・トレースの作品をみていて、スローモーションなのがへんだなと思っていたけど、手順を考えると、たしかにそうするほかない。でもそれはうその時間(架空の時間)で、現実の時間のなかにある枠を借りてそこにあるだけだから、それはなんかアクセスしづらい。と思う。

ダンサーの身体が参照するものが、トレース元というよりじぶんの作り出したスコアになる。私の観察の経験を内側にくるみこみながら、その経験を私がする。

・たぶんおもしろいのは、ダンサー()の身体のふしぶしをある状態に押し込める、そのとき、私の指示にしたがって、私が私でないものになる、私の身体の内部の関係を私でないものの関係に組み替えるときに、両者が互いに引っ張り合い、私の身体の表面に、たくさんの私と私でないものが散り散りになる(そして指示の言葉=前進するスコアだけがひびく空間ができる)ことなんじゃないだろうか。実際に手塚さんの体は、トレースをやっているときにぶるぶると震えていた。これはわざとでもなんでもなくて、たとえば肩があがりお腹が奥に引っ込むときに"夫ではない私の体"にはそのバランスが不自然で、そのままいろんな関係を組み替えていると、ふるえが出てきてしまうという。

・もはや役割のうえで引き裂かれる私と、引き裂かれた私の身体の表面について、わけて考えることはできない。手塚さんは、トレースをがんばりすぎて鬱になったと言っていた。身体の内部の構造を組み替えることによって、ほんとうに私というものが揺らいでしまう。「徹底的に表層を観察するためのトレース」が、身体の表面をスクリーンにしたものでありながら、ダンサー=コレオグラファーの私(の内部)という一点で、地図を書く行為によって、ほんとうにその地形を変えてしまうこと。