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ギャラリーαM企画展100回開催記念シンポジウム20世紀美術と現在 | gallery αM

 

[松浦]…彼は、他者の絵画を反復するに際して、どのような徴がその画家の特性を担い得るのか、何が作品をある芸術家の芸術作品と認定させるのかといった考察と分析から、そのようなマークの存在に興味を示し始めます。

その文脈で、抽象表現主義の作品を成り立たせているマークは何かと考えた時、そこに彼はブラッシュ・ストロークを見出したとも言えるでしょう。ブラッシュ・ストロークを見出したことはリキテンシュタインにとっても一つの決定的な断絶というか飛躍を可能にする局面だったと思います。一つには、多くの場合自然発生的あるいは無意識の欲望の発露と考えられがちな筆触による表記そのものが、もしかしたらそれに潜在するあるマークないし痕跡によって駆動されているのかもしれないということを明らかにした点です。つまり、よく言われるように筆触が何ものかの痕跡になるというのではなく、筆触に潜在するものこそが痕跡であるということです。もう一つの点は、他者の絵画の反復に際して、それまでリキテンシュタインは画面の構図、当の画家によって選択された画像的な主題といった次元にこのマークを見出してきたのですが、このブラッシュ・ストロークの連作で、絵画面への表記作用そのものを反復するという局面を迎えたと言えます。さらに、これは東さんが本でお書きになっていることでもありますが、リキテンシュタインはある段階から、今述べた論理の展開として複製したブラッシュ・ストロークと生のブラッシュ・ストロークという二つのブラッシュ・ストロークを並置する、ないし混在させるような画面を作るに至っています。

 

[松浦]個々の画家にとって「芸術と日常との関係の回復」という主題が仮にあり得るとしても、それは多くの場合、画面とどういうかたちで接触するかという場面で大きく露呈してくると思います。そこに筆触の政治の場が開かれています。そこで、今一つの点として筆触を巡る議論がしばしば政治的な語彙とともに語られてきたという歴史も指摘しておきたいと思います。「タッチが画面の上で自らの個別性あるいは平等性を主張し始めると、画面はたちまち無政府主義的な状態に陥る」という一節がボードレールのテクストの中にあります。ともあれ、タッチという一つの小さな窓口も芸術と日常、あるいは芸術と政治等々が接する場に存在しているのではないかと思います。

 

[東]皆さんも日本史の教科書かなにかで見たことがあると思いますが、当時、大英帝国はインドとか中国とか日本とか世界中で起きた出来事をロンドンに配信するためにイラストレーターを雇っていまして、ペンで描かれたイラストが続々とたまっていた。ロンドン絵入りニュースの漫画と北斎漫画はほとんど同時期なんですね。この二つを比べればわかるんですが、ロンドン絵入りニュースのほうはペンで描かれていますので極めて均質な線で描かれている。これは完全にリプレゼンデーションの空間なんですね。それに対して北斎漫画は筆で描かれていますので、まったく違うシステムで作られた絵なんですね。そのあと日本の漫画がどうなったかということを竹熊さんは僕に教えてくれたのですが、それを簡単に要約すると、筆の線で描かれる漫画は均質な線がないわけです。それに対してペンという新しいテクノロジーは当時の日本人にとって極めて衝撃的であっただろう。ペンをいかに使うかということに日本の漫画は向かうんですね。その一つの達成点として手塚治虫があって、手塚治虫の初期の絵は極めて均質な線で描かれている。

それに対するある種の批判として、日本では60年代に劇画が出てくる。劇画はGペンを使って、ペンを使いながらタッチを、今日の言葉で言えば筆触を出そうとするわけです。さらにそれに対する批判というか、それを乗り越えるかたちで大友克洋が70年代の末に出てくる。大友自身はロットリングを使ってなくて、ロットリングを使った作家は別にいるのですが、完全にすべてを均質な線で描くという大友の画像が出てくる。日本の漫画史というのはペンと筆の対立でもあるわけです。

 

[松浦]この本(アール・ローラン『セザンヌの構図』)に関してグリーンバーグも何回か書評のような文章を書いています。セザンヌ自身は線ではなくて色彩でデッサンをすると何度となく語っているのです。その時、色彩と線という対立はほとんどタッチと輪郭線という対立と同等だと思います。ところで、アール・ローランの本は、いくぶんか当初の出版事情ということもあると思うのですが、最近出ている版に至ってもほとんどカラー図版のない画集です。現在出ている版では2点か3点、カラー図版が入っていますが、相変わらず白黒の図版が中心になっています。それはなぜかというと、ローランがセザンヌの作品の中から、それぞれの作品のライナー・ストラクチュアというか線的な構図をもっぱら導き出すことに集中しているからです。
この試みに関してグリーンバーグは非常に揺れていて、一方でセザンヌにペインタリネスを見出そう、つまり線的な構想とは別の組み立てを見出そうとするのですが、他方、ローランによる色彩を欠いた図版とダイヤグラム化した図表へのセザンヌの絵画の還元にあり得べきセザンヌを見出そうともしていて、セザンヌにおける理論と実践の分裂とまで言い出しかねない様相を呈しています。そして、色彩派的なセザンヌではなくて、ライナー・ストラクチュアという仕組みにダイヤグラム化された、アール・ローランの書物セザンヌリキテンシュタインが参照し、その作品で反復しているというのは、今おっしゃったペンと筆の対比を補完する逸話になるのではないかと思います。

 

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一回目

最近のノートをばらばらにして、1枚の紙のなかに再構成する

 

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スケッチと写真に番号を振り、文章の番号と対応させる。イメージを並び替えながら、テキストを参照する。

スケッチをしたときにiPhoneで撮った写真を何枚か追加した。

 

とりあえず実際の位置関係に基づいて配置してみる

紙の大きさに合わせるために何回も調整が必要になる

頭の中に地図が描かれその中を動いているみたい

今までよりも全体を強く意識する

 

並び変えたスケッチを元に写真を並べる

その場所がどこだったか思い出すことが必要になる

違う日に撮られた写真に同じものが写っていることを発見する

空いているスペースに記憶の場外を作る

 

次に地形?を書き込む

書きながらまたスケッチを動かす

紙の幅が足りなくて動かせないところが発生する

 

大体の地形を書き終わったらその地形がどこなのかを書く

並び替えられた写真同士が紙の中で参照されあう

参照するために写真にabなどの名前がつけられる

iPhone音声認識でした記録)

 

ねこの足跡を見つける。

ねこは、紙や写真を、それがなにかをあらわすのじゃなく、もののそのものとして情報を受け取っているんだと気づく。 砂の国旗をありに運ばせる作品をおもいだす けど、なんというかそういう意味じゃないところでその差を使えたらいいとおもう。

 

新しい地面?地形?地図、に?なっている!という感じはするけど、文章に書いてあることを参照しよう、というのがうまくいかない。そのことはもちろん頭のなかにはあって確実に影響しているはずだけど、それを紙のうえに示すのがむずかしい。

 

もとの、スケッチと文章のフォーマットが引き継がれてしまっているかんじがする。大きい紙のすきまを埋めるようにまた細かい文章を書いてしまう

 

このメモ(紙の外側にある)はなんなんだ

 

実際にテキストを引用して、そのままうつして(補足しながら)書いてみた

 

なんとなく耐えられなくなり、紙の上に寝転がったり下から見上げたりして、もう一度坂をかく。紙のうきあがってるところが気になって、一緒に書いた。変だけどなんとなく坂がもう一度ぐにゃんとして感じがする

こういう線が増えるといいとおもった

 

スケッチ、スケッチと文章、それらの並び替え、大きさに比例して情報の量もふえる(からまりが増える)

 

行きづまる。

 

紙を上下を逆にして、階段の写真を横からみたところ、上下反対に見たところをかく。全然見え方がちがっておどろく。それが何なのか考えないで、見えたところから、よく見えたところからかけるからだと思う。ねこと同じ

 

自分のことを家だと思って、家から見える風景を、実際に紙で家があるところに横からかく。ほとんどどうイメージするかの問題だけど、庭の木は自分側に向かってて、ほかの外の部分(実際にそこに見える家は全部うちより下に建ってる)は外側にむかってかいてた、ことにあとから気づいた。

正面から紙を見ると、自分の意識した線が水平線?みたいになって、地面と水面みたいになっていた

 

少し日が経って、ドローイングを一回はがすことにする。空いたところには、番号を書いた(説明書き、注釈?によってふたつの場所にあるものが関係づけられる、とかすこし考えた)

 

とちゅう、空いてるところにこの前の空のことを書いた

 

ひとまず一回目を完成する。

・意外と飽き飽きして、音楽を聞いたり踊ったりしながらやった。

・ふつうにちょっと見にくい。クレヨンとかで書いたらいいのかな。あとは紙ぺらの写真も見にくい。写真いるかな

・あんまり地図というかんじはしない。地図はこうやっては作られないから、そこがポイントだとは思う。

ある風景のなかに以前の自分を見たり、その時振り返らなかった風景を振り返ったり、という実感をもつことが可能になる。と考えていたけれど、それは実際に歩いているときに起こっているというよりも、やっぱりこうして並び替えているときに起こることだと感じる。

この地図?のなかでも、歩いていた時のそれを見えるようにしようとしたけど、そんなに戻れないというか、これを作っているときにどんどん新しいことが起きるから、ちょっと前といまとの対応関係みたいのが書かれる。(でもそれを可能にしてるのはドローイングとか、その時の記憶だということでもある)

・↑がちがうんじゃなくてすごく引き伸ばされてるということだ!それを見ながら、素材としてつかいながら考えることで、どんどん情報量が増える。

・この過程はすごく豊かに感じるけど、なにを考えてるのか?と言われると、よくわからなくなってしまうような気がしたりしなかったり、。風景を見ることがはじめにあるなら、もう少しそちらに寄せていくこともできそうだけど..、それによって最終的な形も決まる、あとタイトル!!!

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・もう一回別の並び替えをやってみる

・実際の地図が登場?

・風景以外のことが登場

・もの(紙)の、大きさでやるのがよい

・地図(立体じゃない、ものが登場しない、のがポイントかもしれない)

・台

・違う大きさのものとしてねこを登場させて、ねこの動きの線?と地図を重ねてみる?、それかねこの動きそのまま。なんかねこがただ歩いてるのをこじつけるみたいのはいやだ

・色んな写真を反対側からかいてみる

・とりあえず私がこれをやっているところを映像で記録して、それをもう一回見た時に、いつなにに気づいてメモをし、いつ新しい線を描いたかをわかるようにしておく。それが新しいものになったポイントが分かる

・動き(時間)をプラスする。実際に体験できるようにする、ひとつの置き換え、技術 やるとしたら風景が→←になってるのをもう一回やるとか、でも鏡は複雑だから、別の方法が使えたらいいと思う。

とちゅう

これは、とちゅう 手前

 

 今までの試みは、私の経験(たとえば散歩の)を分解して個々の現象を取り出し、それをもう一度起こすためのものだったと思う。いま考えてみるとそれは、ひとつの踊りの作り方として、よく理解できる。

 前に子どもがピアノを手や足でたたく映像を見たときに思ったのは、これを演奏だと言うことはできないということ、なぜなら子どもはひとつの技術を以ってピアノを弾いているわけではないから。まだ出会っていない秩序があることと、無秩序であることは違う。まだ出会っていない秩序を可能にするのは、それを実現するために、ひとつの技術ややり方、手順をもってそれを行う者である。

 ダンスにも同じことが言える。振付は、動きそのものを作ることに加えて、複数の動きをまとめ、繰り返し可能にするための技術である。あるいは、たとえば机からペンが落ちることをダンスとするならば、ただもう一度ペンを落とせばいいと言うわけではない。ペンが落ちるか、落ちないか(踊りか、そうでないか)というよりも、どうやってペンが落ちるか(どういう踊りか)が、技術になる。たとえば「タスク」という考え方は、そうした日常の動きをダンスとして提示するための手続き、そのためのひとつの技術としてわかりやすい。

 だから今までの試みは、一度起こったことをもう一度起こすための技術、としての踊りの制作だったと理解できる。しかし今まではダンスのことを考えてきて、あまりにもそちらに寄っていたと思うけれど、いまは前述したように新しい物事の並びを可能にするものとして、いままでの語彙を引き継ぎながら、(ダンスそのものとはっきり区別して)踊りというものを考えられる。

 

松井みどりレクチャーの資料を読み返そうとおもっている

 

中平卓馬

 だがはたして普遍的、客観的な木は存在するのか。

 たしかに存在はしようが、私がそこに居合わせないかぎり木は何ものも意味しないだろうし、また所詮人間とは無縁のものである。一本の木はそれを見る人間によって初めて一本の木として成立する。同様に、リアルなものとはここで、今・私にとってリアルなものとして現出するのだ。[…]現実そのものではないが、私が立ち会うことによって、主体化され、変形された第二の現実、それが映像なのだ。

 

 それならば一本の木の映像を眺める者の場合はどうか。彼に当の写真家の体験を強要することはできない。なぜなら1枚の写真にそういう説得性[…]を求めることはできないからだ。ただ一枚の木の写真は、それを写真家が現実から引用し、自らのうちにおいて言葉を増幅させたように、それを眺める個々人の再引用に向かって開かれているばかりだ。…  

 

 …木が木であることを明らかにした上で、ここに、今、他ならぬ私が立ち会うことによってもたらされる木という言葉の振幅を広げるものでなければならないだろう。

・いい加減同じことを使いまわして考えるのはやめたい、と何度も思うけれど、どうもそうするしかない感じがする。わからなくなった時は、自分がこれまで本当にわずかだけどつくってきたものや思考に立ち戻って、上書きすることからはじめるしかない。

・作品をつくることを考えたときに、すぐに自分の見ているものや読んでいるものと切り分けて、美術(というかんじのする)作品を参照しようとするわるい癖。

・自分が決めたことでいやになって、何もしなくなってしまうわるい癖2。

・何よりもそれが、すぐに眠くなってしまったり、疲れてしまう自分が作ったものになるといいと思う(それがテーマとして与えられたり、メタ的なものになったりせずに)。たとえば私が内部観測について書かれたものにひかれるのは、そういう理由があると思う。

 観測装置とは、量子絡みを実現する一人称行為体の別名である。古典論の枠内にあっては、対象を客観化できる主観は、客観化された対象からの主観の再構成を断念し、かつ、その断念という主客未分を甘受してきた。しかし、この断念は量子論には通用しない。量子論が観測という操作・過程を容認する限り、観測装置と称される一人称行為体の参入が避けられないからである。観測装置の参入がなければ、量子論は経験との接点を失い、砂上の楼閣と化す。核心にある問いは、いかにして主観を代行する一人称行為体を量子論の枠内で立ち上げることができるか、である。

 

 経験世界のうちに現れる行為体は、生物個体やサッカー選手がそうであるように、いずれも延々と継起する観測と決定という連鎖運動に組み込まれている。観測によって決定が更改され、それが引き続き新たな観測を喚起する、という連鎖が際限なく継起する。行為体の運動そのものが内部観測の現れとなる。……物理学における運動法則は、運動履歴によってその内容を変えない。しかしながら、この無時制の法則性は行為体の示す運動には適用されない。行為体の運動の基本は、みずから経験し、観測するそれ自身の運動履歴に応じて、絶えず更改される行為の決定にある。その決定更改をもたらす要因の最大公約数が、行為体が示す持続のうちに見いだされる。

 

  経験世界にあっては、完了形による新たな進行形の呼び込みが定石となる。進行形は完了形を更改するが、それ自体は周囲環境に由来する、先行する完了形から誘引される。

ー松野孝一郎『来るべき内部観測』

 

内部観測、=相互作用

観測する者の生を内側に取り込みながらなされる観測

観測する対象が疲れねむるように、観測する私も疲れねむる。

 

・ それぞれのパフォーマンスには、私が自分のプロジェクトのレパートリーを点検している時間である、沈黙の切れ目が存在する。観客が自らの意図を持続させる一方で、沈黙は私の意図を中断させる。私は再登場し、語りを取り戻し、一定の間それを保持したまま進んでから、またいなくなる。おそらく立て続けに起こる行為か、謎めいた動詞の環によって沈黙させられるのだ、第二の話の追加によって、私の頭脳は四つの要素すべてを取り囲むために広がり、ダンスは音を立てて飛び回り、ディティールとニュアンスは混じり合う、終わりが私に近づき、私も疾走し、両者は出会う。

 四重の拘束は選択のプロセスを覆し、もしくは再び創造する過剰な負担を創り出す。作品の形式は、やるべきことの困難さによって課せられ、パフォーマーの気力によって取り継がれていく。

 

 これはトリシャ・ブラウンの「accumulation with talking plus water motor」という作品についての文章。この作品はaccumulation(動きをつぎつぎ足していく作品)with talking(それを話しながら行う、しかも二つの文章を区切って交互に話す)plus water motor(それに、water mortrという激しく踊る作品を差し挟む)という構造。まったく別の作品たちがぶつかりあってパフォーマー自体にも混乱を起こしつつ、「パフォーマーの気力によって」あたらしい作品の形式が取り継がれる。

 

でもこういう考えを、どうやって提出していけばいいのか?

トレースについて忘れかけているうちに

・「コピー」「完コピ」と言っているおじさんたちがいて、じゃあコピーとトレースの違いはなんだろう?と考えていた。

・コピー&ペースト、貼り付けられる、コピーはそのことを一旦保存しておく:そしてその場所は見えない(コピー、ペーストをする人、操作をする人自身とはちがった場所にある)

・トレースは行為、時間を含んでいる、トレースは(その前までしていたことを)忘れ続ける、コピーみたいに全部を一瞬で再現するということができない、コピーは複製:トレースは似たもの(制作されたもの)、トレースは徹底的に外側だけを写し取ったもの、むしろコピーよりも読み取ってしまう:実際にそれを読んでいる、たとえばある文章をパソコンにトレースさせると、形が似ている文字を間違って出力してしまうことがある(たとえばタイプミスのような間違いではなくて、文字の形じたいが似ているという間違い)

 

ダンスというか、方法・やり方があるものについて、成功か失敗かの判断がなされ、それによって作品が見られる(と思う)、成功/失敗という言い方が正しいかは別として。

それは実感として「Aがおーいと言うと、Bがはいと応える」というひとつのルールが見えてくると、やっとこれをちゃんと見ることができるという気持ちになり、それを軸に起こっていることを見る(ことしか私にはできない。単純に、舞台上でいちばん動いている人に目が行くし、その人がいったい何をしているのかちゃんと分かりたいと思う)。

・手塚さんのとっている方法:トレースのための指示の言葉、それを歌にしたものを舞台にあげる。

 

・ゆっくり以外の方法はないのか?(スローモーション以外で観察する)

・ロボットアームの動かしかたを思い出した。ロボットアームである動きを作りたいとき、"動き"を作ることはできない。ポーズA、ポーズBを設定し、ABというポーズを連続して指示することによって、ABのあいだのいちばん近道の軌道、という動きがつくられる。スローモーションにして生まれる時間はうそだから、ロボットアームみたいな方法でトレースしたら、1秒で起きることを1秒で見ているときに近くなるかもしれない。(アニメーションみたいな、静止画の連続によるダンス。キャプチャをする)あとその間はダンサーの私によって調整される。ダンスが生まれるときというよりダンスを見るときに近いやり方でダンスを再生する。

 

・トレースをみんなでした。

①二人組で話をする

②その間に、相手の動きを観察する

③相手の動きの部分を選択する

④その動きを言葉に起こす

⑤その言葉でほかの人に指示をする

⑥みんなでその指示にしたがって動く(新しい人のトレースになるたびに、みんなでもぞもぞと動いて姿勢をいちいち作り変えた。)

 

・手塚さんは制作をするうえで、まず「ゼロの状態」というのを設定し、その身体に指示を加えていくことで動きを作ったと話していた。でもたぶんそれはパフォーマンスをするうえでの、はじめのニュートラルな体のつくりという意味でやっていることだろう(ゼロの状態でも、他の状態でも、ある別の状態に移動するには絶対に差が生まれる)

というよりも、そもそも言葉ではぜんぶを言えない!ことに気づいてすごく驚いた。

 

ジュリエット、夫、木の葉、「この16時10分頃」は多数の要素をうちに含むが、「言語」はそれを規定できない。「どちらも優しくそよいでいた」というようなセンテンスで多数性をマークすることしかできない。世界には同時に複数のことが生じている。だが一つしか口を持たない私たちは、それらを順に示していくことしか出来ない。発語順序に必然性はない。世界は同時多重である。言語はそこに線形的な先後関係をつけて表現するほかない。 「ゴダール的方法」

 

・そもそも言葉がもどかしすぎる!これをメモしていても問題はここだなという気しかしないのに、言葉でそれを説明するのはすごく大変、おもったより、言葉の問題だとかんじる

・みんなの指示の手順はだいたい、みんなの体を部分ごとにロボットみたいに動かし、「ここまでが基本姿勢です」と言ったあとに、「首の皮をつねる」「ペンで4回ひざを叩く」みたいな動きの部分を加えるというやり方だった。「ここまでが基本姿勢です」というのは、すごくもったいないと思う。たしかにトレースの元になっているのは、座っている状態でなにかを話している人間だから、そのやり方は正しいように思える。でもそれは、せっかくひとつひとつの指示ーー「右足は折りたたんでいて」(みんなが右足を折りたたむ)「左足はななめの外側に開く」(みんなが左足を開く)によって生まれた時間、みんながひとつの「状態」を「運動」に分解しているあいだの時間を、トレースすること、つまり作品の外側に一気にもっていくことのはずだ。

・手塚さんはたぶんそのことをうまく解決するために、指示の言葉や歌を舞台にあげている。スローモーションの観察から、それの歌、現実のスピード(映像と同期)というように、グラデーションを作ることで、指示の言葉によって生まれてしまう時間を作品のうちに入れ込んだ(さいしょから早くはできないダンサーとして、スコアを作るコレオグラファーとして)。

・あーざんねん、は、あーざんねんというリズムと、あーざんねんという動きを指示するものである。

 

作品を記述し規定することがスコアの役割であり、たとえ現実に生起しうるすべての事象をスコアが扱うことになっても、扱えないものがある。それはスコアそれ自体でありスコアを記す行為である。しかし、ではそのスコアを現実(時間と空間)のなかで記述しようとする行為はどこから発するのか?あるいは、その行為そのものが、その記述されようとするスコアによって指示されていたのだとしたら。それぞれの記述はそれぞれ構造として完結を求めるが、そもそも複数の記述、複数の構造が互いに相手を記述しようとして身構え、現にそれははじまっている!こうして複数の任務のあいだに置かれて演奏者は、もはや作曲家/演奏家の区別を維持できず、スコアそれ自体が演奏者となって、まだ書かれていないが書かなければならないという「前に進みつづける」状態を保ち、そこにとどまる。 「トリシャ・ブラウン 思考というモーション」

 

・トレースの作品をみていて、スローモーションなのがへんだなと思っていたけど、手順を考えると、たしかにそうするほかない。でもそれはうその時間(架空の時間)で、現実の時間のなかにある枠を借りてそこにあるだけだから、それはなんかアクセスしづらい。と思う。

ダンサーの身体が参照するものが、トレース元というよりじぶんの作り出したスコアになる。私の観察の経験を内側にくるみこみながら、その経験を私がする。

・たぶんおもしろいのは、ダンサー()の身体のふしぶしをある状態に押し込める、そのとき、私の指示にしたがって、私が私でないものになる、私の身体の内部の関係を私でないものの関係に組み替えるときに、両者が互いに引っ張り合い、私の身体の表面に、たくさんの私と私でないものが散り散りになる(そして指示の言葉=前進するスコアだけがひびく空間ができる)ことなんじゃないだろうか。実際に手塚さんの体は、トレースをやっているときにぶるぶると震えていた。これはわざとでもなんでもなくて、たとえば肩があがりお腹が奥に引っ込むときに"夫ではない私の体"にはそのバランスが不自然で、そのままいろんな関係を組み替えていると、ふるえが出てきてしまうという。

・もはや役割のうえで引き裂かれる私と、引き裂かれた私の身体の表面について、わけて考えることはできない。手塚さんは、トレースをがんばりすぎて鬱になったと言っていた。身体の内部の構造を組み替えることによって、ほんとうに私というものが揺らいでしまう。「徹底的に表層を観察するためのトレース」が、身体の表面をスクリーンにしたものでありながら、ダンサー=コレオグラファーの私(の内部)という一点で、地図を書く行為によって、ほんとうにその地形を変えてしまうこと。

記述すること

 

/表現と記述 なにが表現 記述はなに

■「そういうレベルの意識が表現なんだという考え方は、かなりラジカルだと思いますが、でも、僕たちはさっきお話したような障害者が靴下を履くということを表現したいわけです。自分たちが見たレベルで記述したいわけなんです。」ー『知覚はおわらない』  こういうことを実現したい どうやって?

■ テーレンの記述したことは果たして何かについての説明といえるのか、そこからリーチングの発生についての理論などというものがでてくるのか。手にどんな変化を見てもそれはすべて一つの解決になる。(イントリンジック・ダイナミクスというのは、もともとの振動体としての赤ん坊の身体にあった固有の動きの傾向性みたいなもので、その後にリーチングの開始という解決をもたらすものです。)彼女の観察はリーチングに至る運動の発達について何か一つの見方を提供するというのではなくリーチングの発生そのものを記述している。ー『複雑系の科学と現代思想アフォーダンス』(以下同)

 

/記述の始まりと終わり 運動は止まらない

■内部観測……フローとストック……例えば何かを触る時などは、指を滑らせた時に受ける刺激のフローはどうしてもどんどん変わりますし変わることがむしろ普通で自然なのですが、いったんそのフローを止めないと記述ができないからとりあえずは止めることで知覚あるいは認識の研究が進んできた、……

 ■……創発と呼ばれているようなプロセスとして、そういったカテゴリーを発生させてくるようなシステムの持っている制約、法則性といったものを記述することができるかもしれない……

↓notation?

□この記述ではa点とb点を結ぶ線であれば、いかなる線形でも等価に扱われてしまう。記述する点を無限に細かくすることで対応しても原則的には変わりない。記述された点以外の差異はこの記述によって消去される。……現象の多様性を捨象して同一の対象を確保すること、すなわち同一の単位として同定する方法がノーテーションの基本にあるかぎり、この問題は残る。ー『芸術の設計』

あとで読みます絵が微妙:ラバン身体動作表現理論

→パターンを決める=表現内容を名づける、「即興技能を身につけるために」、動きと動きの間は  振り付けとフロアプランが別になった時

 

/ 文法 文体 つかめなさ

■……ギブソニアンの書く文章というのは大体、トートロジカルでるという評価を受けるんです。……実はトートロジーではなくて運動している文章であるというふうに見ていただけるとありがたいです。常に更改している。更改しているような運動を記述しているからそのようになっているんだ、……

■最も基本的な、規約な述語、つまりそれ以上さらに還元できないところにきていながら、実は環境そのものを述語にひっくるんでいるというのがこのアフォーダンスです。……つまり最も基本的な述語のところに確定しないものを廃するということになっています。

■……「椅子が人に座ることをアフォードする」と言った時、「アフォードする」という述語は座る主体、つまり「人」を含んでいますので、本来文章を終結させるはずの述語が文章を集結させずにいわば運動させてしまうわけです。

 

/物語 〈想起ー時間の摩擦〉から

佐々木:供述調書というのは記録であるわけですが、それが出来上がる過程みたいなものを我々は見ているんです。……そこに生命的なゆらぎ、動揺みたいなものを探していこうというのが発達心理学の浜田寿美男さんの始めた供述分析の方法なんです。……

松野:対話の場合、必ず、生命的と言われた摩擦に相当するものが絶えず残っていて、それが常に先送りされているのだろうと思うんです。

(略)

佐々木:浜田さんの言葉で言うと嘘分析です。想起が反復して更新していく過程の中に、物語が成立していくというプロセスと、事実のリアリティがあらわになっていくというプロセスがあり、両者は違うはずだということを前提にして分析するという手法です。

オルケゾグラフィ - Wikipedia 対話形式の舞踏譜

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キュビスム

http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/7296/1/kusiroron-45-10.pdf