詩を書いておもったこと

 私がつねに単一の見えを経験していること。作品がよってたつ文脈がそれしかない。ひたすら私が分散していくしかない。

 作品のなかで言葉をどうやって扱うか。いきなりジャンル?の問題が立ちはだかる。なにかに表象されることなく、言葉そのものが必要になる、それはなぜなのか。リニアに続いているが、途切れ目がないこと。それを途切れさせてディスプレイすることはなんかちがう。詩を書いてみて、言葉と表象の中間にあると感じた。詩はそのリニアさと、改行による1行ごとの独立(単体で読めるということ、ディスプレイとはすこし違う)を両立していると思った。そして、これは作品がいかに経験したこと、それによって要請される経験しなかったことだけによって立つかという問題にもかかわる。詩はその一行ごとは確かに自分の生活のなかで書かれ、その読み(見え)を重ねて引き継ぎながら、誰も知らない(それを書いた本人ですら知らない?)風景に向かってすべての時間を牽引していく。前の一行が、あとの一行とはまったく脈絡のないものでありながら、それをそれ自体として参照する。

 作品というか美術じたいがなんなのか、ということ 詩を書いてみて、完成したなと思っても、それが冗長なことに気づいておどろいた。
   あお向けに重ねられた畳が
   通りすぎる雲のはやさを数えるとき
というとき、「通りすぎる」はいらない。雲のはやさ だけが雲が通りすぎていくという性質を持っている。詩はどんどん切り詰めることができる、そこに固有の経験を示すときに必要な言葉だけが残る。それはたぶんすごく簡単なことで、どう書けば、作れば伝わるか / 伝わらないかということにもなるし、すなわち現実とどうやって関わるか、現実をどうやってもう一度起こすのかという問題。その文法を自分でつくる、理論をつくる。粘土をつけたり外したり、切り絵で紙のまわりを少しずつ切っていくように、ちょっとずつ地面を形成していく手付き。

 それを作る方法と、それ自体が同じようになっている
私が世界をどう見ているかということが、作品になっている

 あとはどうやってこういう実感から空間をつくるかということが問題。それがただ再現にならず、錯視(こう見えてすごい!)にならず、実際に探索するための地面でありながら、各地にきっかけをばらまきつつひとつの経験が形成されるようにする。

 

5月の日記

「私が雲を見るという関係の中で、私が雲よりも見るよりも遅れて最後にやってきて最初に消えていくものではあるけれど、雲によってもたらされた見るをしている私はそれでもやっぱり特別な何かであり、それは私だから私にとって特別だというようなことではなくて、雲や空や木が見るをもたらす送り先として自覚するものとして特別な何かなのではないか。」ーー保坂和志カンバセイション・ピース

 

20180516
 何もできないところからはじめる、このあたりはあまりにも狭すぎて、そして広すぎて、点から点へ動き回ることしかできない。ある点においては、迷わないように、よけいなことが起こらないように、いつも同じ向きで行ったり帰ったりする。何かを見渡すことはなく、でも、その中断が私をいつも同じ道で行ったり帰ったりさせる。でも、その面の奥に私を包囲している世界があることを知っていて、その道を歩き、その部屋にいる私は、その世界をなんらかの方法で見ている。いつも、サッカーの練習や吹奏楽部の練習や、となりの部屋のドアが閉まる音が聞こえる。その音にずっと取り囲まれている。もしその音がしなくなっても、面に遮られて見えない、しかしあまりにも近いその世界がそのままであることを私は知っている。夜の学校がどんな風であるかを想像する。みんなよく眠っている。その世界は、この私と同じように何度も何度も繰り返される。夕方にスーパーの袋を持って歩くとき、もっと別の季節の夕方に、スーパーの袋を持って歩いている私の姿が重なる。この実感からしかはじめることができない、知っている人が知っている顔をしていることや、いつも見る建物の線や面で視界が区切られていることは、世界の繰り返しにつながっている。それが私の知っている秩序であり、あまりにも私に関係がなくて、そしてあまりにも私に関係している。


20180517
あまりにも窮屈な気持ちのなかで、突然まえに自分の書いたものを思い出してしまう奇妙さ。寝る前に占いを見て、当たりすぎていて変な顔になるのはもっと奇妙。冬の服をいま洗いながら、冬の寒さについて思い出すことができない。しかしこの体は、しっかりとかつての時間に紐づけられ、小さな小さな歴史をつくり、今、以前の自分書いたものを見て、当たり前に書き直そうとする。誰かの書いたものやつくったものを見て、ほんとうにそうだ、これは私の考えていることだと思う。それは自分勝手すぎるかもしれないけれど、自分のものを書き直そうとすることに似ている。それが何年前か、何十年前かは分からないけれど、たしかにこの体と結びつけられて、それが体の歴史の一部になる。私が結び目であると感じる。誰かの書いたものを、私は書き直すように作ることができる。ほんとうに制作というものは、この体を中心に置きながら、あまりにも小さな歴史を作っていくことでしかなくて、途方も無い気持ちになる。


20180518
すぐに映画の気持ちになってしまう。映画の気持ちというのは変だけれど、そうとしか言いようがない。もちろん美しい女優の仕草や表情に感化されている部分はあるけれど、なんというか、映画に流れる空気のなかを、私は生きられるのではないかという気がしてしまうのだ。でもそれは、ほんのちょっとは続くけれど、皿を洗ったり出かける支度をしたりするうちに忘れてしまう。きっとみんなそうなのは知っている。でもたまにそのことの耐えられなさを求めて、同じ映画を見てしまうことがある。映画のなかに、いつも同じように流れる空気と時間に逃げ込みながら、私じしんの生活全部が、こちらに打ち返される。
歌のなかに出てくるように、あなた、君、you、のことを扱いたいと思う(特に英語の詩において)。なにかを求められるようなあなたではなくて、ただそこにいて、歌われるようなあなた。他者という言葉は息苦しい。あなたは誰でもなくて、それを歌う人にとってのあなたでもない、聴く人にとってのあなたでもない。今までに見たことのない人の顔だって、思い出すことができる。夢のなかでそうであるように。私たちが経験した、色々な時間の、色々な場所の経験が、一挙に束ねられる場所としてのあなた、それはイメージと言えるかもしれない、私と誰かが、まったく違う面影を見ながら、同じあなただと言うことができると思う。

ウィスパー

    小学何年生かのとき、かぜをひいて、何日間か声が出なくなった。しゃべろうとしても普通の声はでなくて、こそこそ声は出せたから、困ることはなかった。体も元気だった。ただ声だけがなかった。家にいると、親戚からでんわがかかってきて、母親がちょうど洗濯物を取り込んでいたから、でんわを取って、はいしらおでございます、と言おうとすると声が出ない。親戚はもしもーし、と困ったまま、私も電話でこそこそ声をだすのはなんだかおかしいなと思い、無言で勝手口にいる母へでんわを持っていく。そっかー、声が出なくなっちゃったの、かわいそうねえ、と受話器からもれる声を聞きなさがら、ぽっかりとシーツの取り込まれたあとの空の青さ。
    体は元気だったので、つぎの日は学校へ行って、体育の授業にも出た。たしかサッカーで、私はもともとボールを追いかける集団についていこうとしながら、いつの間にか置いていかれる子だったので、その日もぼんやりとして、意識の境界にいるボールとみんなと、そのさらに向こう側の小さいちいさい鉄棒の連なりを見ていた。誰かが話しかけてくるけど、こそこそ声で、こえがでなくなったの、と答えると、その後なんて言われたかは忘れた。その時、たまにのしかかってくる私はえらばれた子どもである、という感じを、特に強く覚えた。ちいさい私は、自分がえらばれるために演技をしていたのかもしれないし、そもそもこんなこと自体、起きていなかったのかも知れない。けれど夜、部屋にいてぽっかりと上空に部屋を浮かばせているとき、家々の灯りが、ほんとうは全部こちらを見ているかもしれないという底知れぬ恐怖、私が眠りに落ちるとき、いなくなった人々が成し遂げられなかったことを明日に引き受けるという圧、ほんとうに惨めで、誰よりも悲しく、誰よりも勇敢さを要請されている私の体は、いつかに声を失った私の体と、すこしの時間や空間を裏返しに束ねるようにつながっているとしか、思えないときがある。



つづく

 ひさしぶりに中央図書館に寄ろう、と決めて快特じゃなくてエアポート急行にのって日ノ出町で降りる。改札横のドトール名代富士そばに変わり完全に需要にマッチしたのを横目に見つつ、薬局のところには黄金町バザールののぼり。横断歩道の向こうに今は見えないけどミスドがあるのを私は知っている。ケンタッキーでビールとコーヒーを同時に並べながらビールを飲むおじさん。本日の舞姫、5000円女性割引3000円。ペットのトリミング学校のネオンサインは夜になるとツイン・ピークスのやつのように音を立てることも私は知っていた。ちょうどストリップ劇場のところからのぼり坂になって、そこを歩きはじめたところで気づいた。私はいつもどこかに行くために坂をのぼっている。実家は坂の上だし、小学校に行くのも上り坂の連続だった。中高も山の手にあった。いまひとりで住んでいる家も山の上。大学も上のほうにある。
 ・この出来事の30分ほど前、実家から駅まで歩いた時に、知っている場所に特有の重力を感じた
 ・いつまでも知っている場所について作り続けられない
 ・体がなだらかな山に沿う、体を山の形にしてその体を指差してなにかを説明する(イメージ)
 目が、ここと、別の場所に離れて見下ろした。(私は歩いていたはず)一気に向こう側を見た。向こう側がどうなっているかも私は少し知っていた。何回か歩いたり車で来たりしたことがあった。ぐるっと右側には競馬のなにかがあって、そのまま行くと県立図書館があって、カレー屋さんのところで降りていく道は右側がすごくわざとらしい装飾の結婚式場。脇をずっとのぼっていくとギャラリーがあって、私はそこで菅木志雄が石を並べたり石と紙にシールを貼ったりするパフォーマンスを見たことがあった。そのあともうそれがどこだか全くわからないが手すりのある階段の写真を撮った。結婚式場の道を降りていくと急にみなとみらいがあって、まず桜木町の駅の建物の映画のポスターが貼ってある壁。山にはでかいお寺が張り付いていて、なぜか友達と行ったときに工事中で崖に張り付いたこわい階段をとつとつ降りていった記憶があるけどそれが具体的にどの辺だったかは分からない。でもその時も見下ろしていた。ずっと下に民家の瓦屋根が見えた。あとぐるっと左はまず図書館がでかくて、そのさらに上には動物園があるけど入ったことはない。お寺に行った時はその辺の展望台のところに行って、友達と何枚かパノラマ写真を撮って遊んだ。そっち側の下に行く道は知らなかった。
 そのあと本を借りた。5階、人文科学のフロアーです。3階に行ったらたくさんのおじさんたちが新聞を読みまくっていた。友達と夏休みの宿題をやりに来て、たしか3階でやっていたら頭のおかしなおじさんが二人くらい来て図書館の人を困らせていたことを思い出した。
 ・動きの形だけじゃなくて具体的なイメージがあると圧倒的にやりやすくなる。そのものの形とかそれに対する心持ちではなくて、それが体に与える圧?というか力? 内側→外側じゃなくて、外側→内側 (イメージが自分の内部で作用し、身体を操作する のではなく、ものが自分に対して作用することによって、自分の新しい体のあり方を認識する。
<アルバイトに行く>
 そのあと横浜駅に戻って、中央通路から西口に出るエスカレーターが変わっていた。奥に空間ができてコインロッカーが並んでいるのが見えた。ドイツの駅に似ていると思った。金色の女の子の像があった気がするのは工事の壁で隠されていた。角のコンビニや、ジョイナスに行く通路は塞がれて、全然ちがう場所みたいだった。
<有楽町にエイリアンコヴェンナントをみに行った。映画館の場所はわかりにくかった。有楽町は前に来た時もたくさん迷って、施設のなかに施設が入れ子になっているからだと思った。TOHOシネマズ日劇までエレベーターで上がっていくと、鏡が無限に2つのエスカレーターと電気を反射していた。鏡がいろんな方向にあって、空間と像の境目がなくなっていた。手を伸ばすまで、そこが空間なのか像なのかわからなかった。>
<もうきっと忘れはじめていて、記憶の質が連続しないままで書き続けていくことはおかしい。日記を後から書いているみたいだ。でも、日記だってある程度振り返りつつ書くもののはずで、どのくらい遅れたらそれが嘘になるのか私にはわからない。でもこれはかなり大きい問題のはずで 知っている場所に引っ張られ続けていくしかない、と気づきつつ、その場所は物理的に遠くなってしまったというとき どこまで記憶を信じられるか?どれくらいまでそれを根拠にできるのか?そもそも、どうしてそんなに場所が重要なのか?なにより素朴なことに感動し、驚き、つくっているつもりだったけどそれはあまりにも自分の話でしかなかったかもしれないと思う。それでも実感はだいじで、だったらもう一度経験できたり、理論としてもう一度使えるような、という可能性にひらかれた可能性を作ること。
 横浜駅では、サンドイッチのセットが500円のやつを食べるためにコメダ珈琲に向かった。西口を出て、川沿いに歩いて、どこかで曲がって、コンビニや牛丼やさんが見えたらまたどこかで曲がる...ということを、なんとなく不安げだけれど私はちゃんと記憶していた。でも、妙に信じられなくなってグーグルマップで調べたけどやっぱり合っていた。いろんな時にこのあたりに来て、同じ景色の見えを経験して、それでいま私はコメダ珈琲に行けると思うとそれはすごいことだと思った。
 ・ものと体の付き合い方に対する意識の割合がおおきい方だと思う。手つきとか、ものの持ち方が変だし、うまく言えないけどバランスが取れていると思うときと、全然取れないときがある。あとは一連の動作の流れみたいなものがすごく強固に自分のなかにあり、それが崩れるときがあると急に不安になったりする。わからないけど、きっと日々のなかで歩いたり、生活の行為をしたりするのが、ふつうより多めに蓄積されているんじゃないかと思う。だから臆病だし、他人に体をあずけることがあまりにも怖い!
 

窓のそと

 

二十秒に一度いすを持ち上げながら窓の外について話す

 

 

雨が上がって 雲が灰色から白に変わって 真っ青に晴れている時よりも空がまぶしく感じる 前に見える木は 私の右側 の 三分の 半分に切って 三分 真ん中から三分の一ぐらいのところにある木は まわりの木と比べて枯れている感じがする 笹みたいな葉っぱが 下に向いていて まわりも少し茶色くなっているような気がする 私の正面 の真ん中らへんにある木からは つるのようなものが 木のなかの方から のびている それが風によってたまに揺れているのが見える 私の  正面の右側にある木は 木が 葉っぱが 木の葉っぱの生えている根本の ところが 赤くなっている 木が 多い  私はいま 二十秒に一度 私の右側にある椅子を 持ち上げながらしゃべっている 私の時計は だいたい 五分 くらい ほんとは 四分くらい  早く設定してある なぜなら 私はよく遅刻をするので 時計が 信じられなければ 早く行動できるんじゃないかなと思って そうなっているけど 秒針は 私が 時計を何時にセットしても変わらず動いているので ラーメンのゆで時間を計るときとかは 絶対に正しく計れるし 十分とかも 計れるからそれはすごい と思う 私だけ時計をべつの使い方しているみたい でなんとなくかっこいい と思う  見えるものはあとは 私のちょうど真ん中 らへんに 大きい塔みたいなものが見えてそれが一番いま 見えているなかでは高いなんの塔なのかは分からない 長い棒の 上に の一番上のところに なんかついてる それは 右に が二 とすれば左は一 で ふたつの 何かがつながっているもしくは ひとつの何かが真ん中でわかれたみたいな形をしている車が 通りすぎる 長い車しかあそこは通らない  見えるのは 白い 長い  ハウス トラック がまた通りすぎる 今度は右に向かって通りすぎる あと 青い 水をまわすための機械みたいなものが見える あと奥に 山の あいだから 家々が 下に向かって流れ出してきているみたいなのが見える 奥に 真ん中の塔より 少し低い 低くない低く見えるけど 奥にある長い鉄塔みたいなものが 一二 三 四 五 六七八九 十 十一 十二十三 十四十五

 

 

 

 

ぶら下げたかごに洗濯ばさみを繋げながら窓の外について話す

 

 

白い 白い飛行機が飛んでいる   色は  白 翼はたぶん 青 網戸の網目が見える   

ニューシティーベル 馬のマークが書いてある ななめ 右 前に見えるマンション  白い輪郭線の黒い馬  たてがみと しっぽが白  そこだけ  黒の輪郭線で抜かれている たくさん棒が見える なんの棒かは分からないけど  分からない 一二三 四本 見えるたぶん それは ニュー シティーベルの右奥に見える 茶色い 段々の構造になっている 茶色いマンションに関係している茶色いマンションの奥は コンクリートの  汚れた ような 色   カステラで ようかんをはさんだお菓子みたいな 茶色の  壁 がコンクリート に挟まれているところが見える 飛行機はまだ ゆっくりとしたスピードで進んでいて さっき から  空を の 空を一としたら 一 〇.一 十分の一ぐらいしか進んでないと思う けど話しているあいだにも 進んでる 進んでる  遠く なってく たぶん 私は 一直線に空が見えてるけど 飛行機はどんどん奥に向かって飛んでるから   斜め   という 遠くにどんどん  奥に 行ってるように見える 最初 一直線に進んでるのかと思ったけど 違うどんどん右奥に 吸い込まれていくみたいに こっから見えなくなったら 飛行機って どこに 行くんだろう 飛行機乗ってる人から 見えたかなあ  と 思う ニトリ ホームファッションニトリ緑のおおきな看板 看板? サイン? この町で 一番目立つみたいに 立ってる 家具 インテリア その左下ヤマダ電機赤い マーク もうひとつ飛行機が飛んできた 同じような カラーリングで 同じような位置 に 位置 から飛んでくる  仏壇 ニューシティーベル  の テレビ?受信アンテナ の  奥に 仏壇って 結構遠い場所にあるビル だと思うけど見える 夕日が 西日が 姿を現して ニューシティーベルの 階段 あたり  ニューシティーベルって書いてあるところは 建物の 側面で そっちに階段があって 白い なんでああいう窓ってあるのか分からないよね みたいな 階段 の  とこに白い 欄間みたいな 窓 が ある   松みたいな 木がその隣には生えてて ニューシティーベル からはきっとなんか ライフラインの 線 みたいなものが   のびてる          雲は いま見えてる 空の分量の 三分の一 ぐらい に 占めてて 下が黒くて陰になってて 陰になってる 絵で 描いたみたいな わざとらしい感じで 陰影がついて 見える  見えるの 左に見えるのは 緑の瓦 その奥に 紺の 瓦 屋根 どっちも二階建て どっちも二階 二面? 二段に 見える 見えてる 瓦が 影 木の影が また飛行機が 飛んでる 今度はさっきより ちょっと上の方だし さっきより小さく見えるからさっきより奥 を飛んでるはず で  西日で 西日 の 影が落ちてる 緑の 瓦の家には落ちてない左の じゃない 右の  じゃない 奥の 紺色の瓦の家 に 落ちてる 影が 木の影だと思うたまに揺れてる  瓦屋根に影が落ちてて その 瓦屋根はななめで 家の壁は白 く 平らなはずなのに 平ら? 垂直なはずなのに 木の影は それを無視して そういう 面の関係 を無視して  る 落ちてる 木の影がその 連なりのうえに 真っすぐに落ちてて 変 変だと思う ずっと ニューシティーベル の屋根の   尾根の ちょっと右側に たぶん違うマンションだと思う違うマンションの  屋上 銀色の何かが ずっと太陽を反射してる 太陽の位置が わかる  る私の 見えてる窓 その だいぶうしろ側 だけどうしろ側で ちょっと右の方から太陽は 差してる  全体的に  右側 いつも変だなあと思うのは ニューシティーベル が 右側向きだから 右にななめってるから 私の 家が 変な向きに 町に衝突したみたいな 感じがしている 私は 眺めがよくて いい家がよくて 三階に住んでる  でも 割とニューシティーベル しか見えてないけど 空も が見えるし こういう 風にして 見えてる 光 影の向きが 時間によっていつも違う のが見えてる   カラスが ニトリに向かって飛んでく ように見えて 青い瓦屋根の 奥の   にぶい 青 緑色 白い 窓枠 窓の 海外の アメリカとかの家みたいな 窓のまわりについてる 雨戸の ぱたんて 観音開きで閉めるやつは茶色  を 通過すると 見せかけて ニューシティーベルの屋根にとま の 私 から見て奥側にとま ってはいたが いま 飛びたった   雲が 左側は いま見えてる空の 四分の一ぐらいに なってる なった 

 

 

ギャラリーαM企画展100回開催記念シンポジウム20世紀美術と現在 | gallery αM

 

[松浦]…彼は、他者の絵画を反復するに際して、どのような徴がその画家の特性を担い得るのか、何が作品をある芸術家の芸術作品と認定させるのかといった考察と分析から、そのようなマークの存在に興味を示し始めます。

その文脈で、抽象表現主義の作品を成り立たせているマークは何かと考えた時、そこに彼はブラッシュ・ストロークを見出したとも言えるでしょう。ブラッシュ・ストロークを見出したことはリキテンシュタインにとっても一つの決定的な断絶というか飛躍を可能にする局面だったと思います。一つには、多くの場合自然発生的あるいは無意識の欲望の発露と考えられがちな筆触による表記そのものが、もしかしたらそれに潜在するあるマークないし痕跡によって駆動されているのかもしれないということを明らかにした点です。つまり、よく言われるように筆触が何ものかの痕跡になるというのではなく、筆触に潜在するものこそが痕跡であるということです。もう一つの点は、他者の絵画の反復に際して、それまでリキテンシュタインは画面の構図、当の画家によって選択された画像的な主題といった次元にこのマークを見出してきたのですが、このブラッシュ・ストロークの連作で、絵画面への表記作用そのものを反復するという局面を迎えたと言えます。さらに、これは東さんが本でお書きになっていることでもありますが、リキテンシュタインはある段階から、今述べた論理の展開として複製したブラッシュ・ストロークと生のブラッシュ・ストロークという二つのブラッシュ・ストロークを並置する、ないし混在させるような画面を作るに至っています。

 

[松浦]個々の画家にとって「芸術と日常との関係の回復」という主題が仮にあり得るとしても、それは多くの場合、画面とどういうかたちで接触するかという場面で大きく露呈してくると思います。そこに筆触の政治の場が開かれています。そこで、今一つの点として筆触を巡る議論がしばしば政治的な語彙とともに語られてきたという歴史も指摘しておきたいと思います。「タッチが画面の上で自らの個別性あるいは平等性を主張し始めると、画面はたちまち無政府主義的な状態に陥る」という一節がボードレールのテクストの中にあります。ともあれ、タッチという一つの小さな窓口も芸術と日常、あるいは芸術と政治等々が接する場に存在しているのではないかと思います。

 

[東]皆さんも日本史の教科書かなにかで見たことがあると思いますが、当時、大英帝国はインドとか中国とか日本とか世界中で起きた出来事をロンドンに配信するためにイラストレーターを雇っていまして、ペンで描かれたイラストが続々とたまっていた。ロンドン絵入りニュースの漫画と北斎漫画はほとんど同時期なんですね。この二つを比べればわかるんですが、ロンドン絵入りニュースのほうはペンで描かれていますので極めて均質な線で描かれている。これは完全にリプレゼンデーションの空間なんですね。それに対して北斎漫画は筆で描かれていますので、まったく違うシステムで作られた絵なんですね。そのあと日本の漫画がどうなったかということを竹熊さんは僕に教えてくれたのですが、それを簡単に要約すると、筆の線で描かれる漫画は均質な線がないわけです。それに対してペンという新しいテクノロジーは当時の日本人にとって極めて衝撃的であっただろう。ペンをいかに使うかということに日本の漫画は向かうんですね。その一つの達成点として手塚治虫があって、手塚治虫の初期の絵は極めて均質な線で描かれている。

それに対するある種の批判として、日本では60年代に劇画が出てくる。劇画はGペンを使って、ペンを使いながらタッチを、今日の言葉で言えば筆触を出そうとするわけです。さらにそれに対する批判というか、それを乗り越えるかたちで大友克洋が70年代の末に出てくる。大友自身はロットリングを使ってなくて、ロットリングを使った作家は別にいるのですが、完全にすべてを均質な線で描くという大友の画像が出てくる。日本の漫画史というのはペンと筆の対立でもあるわけです。

 

[松浦]この本(アール・ローラン『セザンヌの構図』)に関してグリーンバーグも何回か書評のような文章を書いています。セザンヌ自身は線ではなくて色彩でデッサンをすると何度となく語っているのです。その時、色彩と線という対立はほとんどタッチと輪郭線という対立と同等だと思います。ところで、アール・ローランの本は、いくぶんか当初の出版事情ということもあると思うのですが、最近出ている版に至ってもほとんどカラー図版のない画集です。現在出ている版では2点か3点、カラー図版が入っていますが、相変わらず白黒の図版が中心になっています。それはなぜかというと、ローランがセザンヌの作品の中から、それぞれの作品のライナー・ストラクチュアというか線的な構図をもっぱら導き出すことに集中しているからです。
この試みに関してグリーンバーグは非常に揺れていて、一方でセザンヌにペインタリネスを見出そう、つまり線的な構想とは別の組み立てを見出そうとするのですが、他方、ローランによる色彩を欠いた図版とダイヤグラム化した図表へのセザンヌの絵画の還元にあり得べきセザンヌを見出そうともしていて、セザンヌにおける理論と実践の分裂とまで言い出しかねない様相を呈しています。そして、色彩派的なセザンヌではなくて、ライナー・ストラクチュアという仕組みにダイヤグラム化された、アール・ローランの書物セザンヌリキテンシュタインが参照し、その作品で反復しているというのは、今おっしゃったペンと筆の対比を補完する逸話になるのではないかと思います。

 

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一回目

最近のノートをばらばらにして、1枚の紙のなかに再構成する

 

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スケッチと写真に番号を振り、文章の番号と対応させる。イメージを並び替えながら、テキストを参照する。

スケッチをしたときにiPhoneで撮った写真を何枚か追加した。

 

とりあえず実際の位置関係に基づいて配置してみる

紙の大きさに合わせるために何回も調整が必要になる

頭の中に地図が描かれその中を動いているみたい

今までよりも全体を強く意識する

 

並び変えたスケッチを元に写真を並べる

その場所がどこだったか思い出すことが必要になる

違う日に撮られた写真に同じものが写っていることを発見する

空いているスペースに記憶の場外を作る

 

次に地形?を書き込む

書きながらまたスケッチを動かす

紙の幅が足りなくて動かせないところが発生する

 

大体の地形を書き終わったらその地形がどこなのかを書く

並び替えられた写真同士が紙の中で参照されあう

参照するために写真にabなどの名前がつけられる

iPhone音声認識でした記録)

 

ねこの足跡を見つける。

ねこは、紙や写真を、それがなにかをあらわすのじゃなく、もののそのものとして情報を受け取っているんだと気づく。 砂の国旗をありに運ばせる作品をおもいだす けど、なんというかそういう意味じゃないところでその差を使えたらいいとおもう。

 

新しい地面?地形?地図、に?なっている!という感じはするけど、文章に書いてあることを参照しよう、というのがうまくいかない。そのことはもちろん頭のなかにはあって確実に影響しているはずだけど、それを紙のうえに示すのがむずかしい。

 

もとの、スケッチと文章のフォーマットが引き継がれてしまっているかんじがする。大きい紙のすきまを埋めるようにまた細かい文章を書いてしまう

 

このメモ(紙の外側にある)はなんなんだ

 

実際にテキストを引用して、そのままうつして(補足しながら)書いてみた

 

なんとなく耐えられなくなり、紙の上に寝転がったり下から見上げたりして、もう一度坂をかく。紙のうきあがってるところが気になって、一緒に書いた。変だけどなんとなく坂がもう一度ぐにゃんとして感じがする

こういう線が増えるといいとおもった

 

スケッチ、スケッチと文章、それらの並び替え、大きさに比例して情報の量もふえる(からまりが増える)

 

行きづまる。

 

紙を上下を逆にして、階段の写真を横からみたところ、上下反対に見たところをかく。全然見え方がちがっておどろく。それが何なのか考えないで、見えたところから、よく見えたところからかけるからだと思う。ねこと同じ

 

自分のことを家だと思って、家から見える風景を、実際に紙で家があるところに横からかく。ほとんどどうイメージするかの問題だけど、庭の木は自分側に向かってて、ほかの外の部分(実際にそこに見える家は全部うちより下に建ってる)は外側にむかってかいてた、ことにあとから気づいた。

正面から紙を見ると、自分の意識した線が水平線?みたいになって、地面と水面みたいになっていた

 

少し日が経って、ドローイングを一回はがすことにする。空いたところには、番号を書いた(説明書き、注釈?によってふたつの場所にあるものが関係づけられる、とかすこし考えた)

 

とちゅう、空いてるところにこの前の空のことを書いた

 

ひとまず一回目を完成する。

・意外と飽き飽きして、音楽を聞いたり踊ったりしながらやった。

・ふつうにちょっと見にくい。クレヨンとかで書いたらいいのかな。あとは紙ぺらの写真も見にくい。写真いるかな

・あんまり地図というかんじはしない。地図はこうやっては作られないから、そこがポイントだとは思う。

ある風景のなかに以前の自分を見たり、その時振り返らなかった風景を振り返ったり、という実感をもつことが可能になる。と考えていたけれど、それは実際に歩いているときに起こっているというよりも、やっぱりこうして並び替えているときに起こることだと感じる。

この地図?のなかでも、歩いていた時のそれを見えるようにしようとしたけど、そんなに戻れないというか、これを作っているときにどんどん新しいことが起きるから、ちょっと前といまとの対応関係みたいのが書かれる。(でもそれを可能にしてるのはドローイングとか、その時の記憶だということでもある)

・↑がちがうんじゃなくてすごく引き伸ばされてるということだ!それを見ながら、素材としてつかいながら考えることで、どんどん情報量が増える。

・この過程はすごく豊かに感じるけど、なにを考えてるのか?と言われると、よくわからなくなってしまうような気がしたりしなかったり、。風景を見ることがはじめにあるなら、もう少しそちらに寄せていくこともできそうだけど..、それによって最終的な形も決まる、あとタイトル!!!

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・もう一回別の並び替えをやってみる

・実際の地図が登場?

・風景以外のことが登場

・もの(紙)の、大きさでやるのがよい

・地図(立体じゃない、ものが登場しない、のがポイントかもしれない)

・台

・違う大きさのものとしてねこを登場させて、ねこの動きの線?と地図を重ねてみる?、それかねこの動きそのまま。なんかねこがただ歩いてるのをこじつけるみたいのはいやだ

・色んな写真を反対側からかいてみる

・とりあえず私がこれをやっているところを映像で記録して、それをもう一回見た時に、いつなにに気づいてメモをし、いつ新しい線を描いたかをわかるようにしておく。それが新しいものになったポイントが分かる

・動き(時間)をプラスする。実際に体験できるようにする、ひとつの置き換え、技術 やるとしたら風景が→←になってるのをもう一回やるとか、でも鏡は複雑だから、別の方法が使えたらいいと思う。